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5. 龍谷大学の改革について

本学の改革については、永い歴史を有する事から幾つものエピソードがあります。江戸時代初期から中期にかけても大学(当時學林)を揺るがし、その都度幕府も巻き込む事件が大きなものだけでも3件[ 承応鬩牆(じょうおうのげきしょう)・明和法論(みょうわのほうろん)・三業惑乱(さんごうわくらん)]あり、いずれも教義に絡んだ大論争に発展しました。
しかし、近代の改革の最大のものは、本願寺第21代明如(みょうにょ)宗主(1850~1903)の時に「學林の改革」を建議し、1868年(明治元年)から學林改正に取り組み始めます。

そして1872年(明治5年)1月から1874年(明治7年)8月迄、欧米諸国の宗教事情や議会制度等の調査・研究に「梅澤澤融(うめざわたくゆう)」「島地黙雷(しまぢもくらい)」を
岩倉具視遣欧使節団と共に海外視察に送りました。この島地黙雷が書き残したものの詳細については、本学図書館に大全集として残っています。

 
  岩倉使節団
画像引用:Wikipedia

一方、別ルートで「赤松連城(あかまつれんじょう)」「堀川光阿(ほりかわこうあ)」「光田為然(こうだいねん)」の3名を英・仏・独に派遣留学させ、主に宗教事情と大学及び教育制度等を研究し帰国します。

梅澤澤融と島地黙雷らは、1881年(明治14年)にヨーロッパ特にドイツ・プロシア帝国の議会制度等を参考に「本願寺宗議会制度(現在の宗会)」を確立します。 明治政府は何とこの本願寺宗議会制度を研究しそれを真似て10年後に「第一回帝国議会」を1890年(明治23年)11月に開設するのです。

明治になって23年目にして日本初の議会が行われたのです。
そして赤松連城らが約3年後に帰国し、大學林の教学改革に取り組み、1876年(明治9年)に全国の各県に小教校、七つの大都市に中教校、京都に大教校を設立し、その大教校の本部として大宮本館建設に結実して行くのです。

この小教校・中教校・大教校の制度は現在も本願寺派立の「龍谷総合学園」の27校として現在に引き継がれています。(これらの学園が全て龍谷大学付属となれば、日本最大の学校組織となります)これは推測ですが、赤松連城らが英国で学んだ大学は、当時としてはロンドン大学、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学と思われます。
このことは、元学長の千葉乘隆先生が、1985年(昭和60年)9月7日から一ヶ月間、日本私大連盟主催の「欧米大学経営セミナー」に団長として参加された記録『
欧米大学事情 見聞録』(探求社)に詳しいが、そこには英国のケンブリッジ大学エマニュエルカレッジに招待され、学長晩餐会に出席するため同校の入り口に降り立った時「一瞬、大宮本館にいるような錯覚を起こした」と書かれています。

もしかして大宮本館は、赤松連城らが見たケンブリッジ大学をモデルとしたのかもしれません。

   
  ケンブリッジ大学
画像引用:Wikipedia


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